欠けたお皿を持って金継ぎ教室に行ってきた。
お教室にいらしていた方々のテーブルを見てみると、
元がどんな姿だったのかさえわからないくらい
様々な割れ方をした破片たちが転がっていた。
私は持参したお皿の欠けた部分を見て、
なんかつまらないなと思ってしまうくらいに
皆さんの器は、潔くぱりんぱりん、だった。
金継ぎを施した後、
本来の用途さえ何だったのかわからないくらいぱりんぱりんの破片たちは
金色が脈打つ新たな器、見事な作品、として生まれ変わっていた。
金継ぎって、素敵!と思った。
大切に使っていてもやむなく割れてしまったものが
新たに金のデザインが加わり、再生される。
またさらに大切に使おう、改めてよろしくね、と思う。
私の欠けた部分は、洗い残し?みたいに思うくらいの
チッ、と金色が入って、小規模だけれども。
欠けて使うのを控えていたお皿を、
食卓に堂々と出せるようになった。
私たち人間だって
ぱりんぱりんに潔く割れた人生の経験たちを、
時間がかかってでも、自ら立ち直らせ、
繋ぎ合わせたり、
放り捨てたり、
抱えたりしながら
脈々と生活しているのだ。
誰のことも責められない。
好きになるのも嫌いになるのも全部自分が決めてきた。
かなしいかな、自分をしあわせにできるのは
ただ自分だけなのだと思った。
2020年03月06日